非モテは単なる不平屋か

 以下の記事についての人様のエントリにカッとなったので書いてみた。後悔はしていない。

 非モテは彼女ができても非モテ

 この記事の要点かつ突っ込まれているところは、

 俺はセックスしたかったんじゃない

 青春がしたかったんだーー

 という部分だろう。

 これに対して、ツリーでも様々な反論が出されていたが、それを洗練させるとこうなるのだろう。

 この手の“自称非モテ”の文章は、インターネット上にほとんど定期的にあがってくるが、一体全体、彼らはどういう状態まで辿り着いたら満足の境地に至るのか、本当にわからない。

一歩前進した自分を評価するでも、彼女に感謝するでもなく、不満と不足を口にする人の欲求に際限があるとは思えない。

非モテ餓鬼道”

2009-10-07

 確かに元増田の文章は誤解を受けやすい文章ではある。
 ただ、「非モテ論」の枠組みを理解している人、もしくは見慣れた人なら、元増田の書いていること=したいことだと考えることはしない。だいたい、書いてある願望を文字通りの願望と受け取らない、というのはテクスト読みの初歩ではないか、と思う。

 正直、「非モテ餓鬼道」にある通り、非モテが精神的飢餓感ということで説明できるなら、ネット界隈でここまで非モテ議論が賑わうことはなかったと思う。単純な精神的飢餓感であれば、昇華や代償といった方法が確立されているから。

 問わなくてはならないのは、青少年期における恋愛経験の欠如がなぜここまでの精神的飢餓感をもたらすのか、ということだと思う。で、答えはまあ、諸ブログの論点を繰り返せば出てくるわけで、その中でも最も秀逸だと思う増田をあげよう。少々長いけれど。



今日の問題の構造はもう明らかだ。
「恋人、セックス相手としての異性との物語だけが我が物顔をしすぎていること」。


そうなった理由は
バブル期軽佻浮薄文化にどっぷりだった元若者が引きずり続けてる、でもあるし
デート文化で金使ってもらおうと企んだ企業やマスコミの陰謀だー、でもあるし
恋愛白熱が自分達の価値高騰に繋がると睨んだ女性が加担したー、かもしれないし
惰性と無能と思考硬直でそれしか作れなくなっちゃっただけだー、もいくらかありそうだし
それ以外の物語が縮小・希薄化しすぎているせいだ、でもある。


とにかく、なんだかいろんな不自然な力が働いて今日の日本では物語と言えば「恋人、セックス相手としての異性との物語」になってしまった。
・恋人、セックス相手としての異性を持っている人間
・もしくはそれを近日獲得予定でその途上の人間
でなければ物語に参加できない。


このメッセージが、社会から繰り返し繰り返ししつっこく与えられてきた。
そのせいで人の心に産まれた無用の疎外感や虚無こそが「非モテ」の正体ではなかろうか。


本来は恋愛に向いていなかった人、興味が薄かっただろう人まで恋愛・SEX物語のプレッシャーを受ける。当然のように恋愛・SEX相手の異性がいることが「まともな人間」の前提として求められる。それ以前にその獲得のためのアクションと努力が無制限に求められる。人間の「型」が恋愛へのアクション・努力に適していなければまず徹底した自己否定と改造が求められる。努力して結果が駄目であったら人格領域にまで踏み込んだ自己批判が求められる。


これはウザかろう。最大与党の物語としては薄っぺらいしポンコツ過ぎる。異性は「非モテ」を救わない。その獲得はこのウザい物語の枠組みの強調でしかないから。加藤が救われるには、安定した職場や彼を気にかけてくれる職場のオジサン、友や仲間としての男達、やりがいのある仕事をしているというプライド、社会に貢献していると言う自負、そういうものこそが本当に必要だった。


昨今はさすがに、自分が選んだでもない恋愛物語の価値上で努力や実現を強制されることについて苛立ち・拒否の表明みたいなものも珍しくなくなってきたが(過去はこれを言うと「強がっているw」「すっぱいブドウw」などと言ったありがちな石がバラバラ振ってきてしかもそれを必死に投げてる人達をよく見ると恋愛物語下で苦しんでいる非モテもいっぱい参加してたり、という脱走奴隷と体制側奴隷のジレンマみたいな悲惨や喜劇があった)それでもまだまだミソジニーだと言われたり無気力だと言われたり問題把握に混乱や誤解が多い。
加藤も彼自身が恋愛物語の支配的影響に毒されて、自分の不満や問題点が概念としての「彼女」に集約していた。自分を苦しめていることの本質がモヤで見えなくなってれば暴れるぐらいしか解決策が思いつかないこともあるだろう。


この不幸で有害な恋愛物語支配はいつになったら打倒されるんだろう。
潜在的にはかなり支持率低下してるようにも感じられるのだが
対立野党と選挙がない。


非モテが救われるのに異性は不要

以上より、最初の元増田の文章から透けて見えてくるのは、書いてある通りのこうしたい、という願望なんかではない。自分の努力だけではいかんともしがたい要素で人から判断されたり、自分が劣等感を抱え込むことの苛立ちだ。それだけに、そうした虚無感や劣等感から無縁な人は、何に苦しんでるの?何でいらだっているの?いらだつことはおかしくない?と言いたくもなるのだろう。

だから、元増田がどうなれば幸せになるかは僕の目からすれば明らかだ。それは、元増田が青春時代に戻って可愛い彼女ができて青春することなんかじゃあない。ごく限られた期間の恋愛経験の有無が人間の評価に影響を与えない社会、より抽象的な言い方をすれば、個人を特定の思想や基準のみで評価しないというごく当たり前の社会の実現だ。

たかが恋愛ごときが、ここまで人間の評価に影響を与えているこの社会は、やはりおかしいと思う。恋愛なんかは、周りに流されてするものじゃなく、本当に大切にしたい人ができた時、その余裕がある時にするものじゃないのかね?